第五章 戦略的アライアンスの展開―「機会」を創り出す経営。(1)
2009年2月18日
アグレッシブに「変化」を取り込む経営。
企業・組織は、その業種業態にかかわらず、売り上げ、ひいては利益を上げていくには、次の3つの営業活動に従事しなければならないと言われている。
■見込み客に働きかけ新規客として獲得し客数を増やす。
■既存客に働きかけて購買頻度を増やしてもらう。
■既存客に働きかけて平均購買金額(舞台芸術にあっては購入枚数)を増やしてもらう。
フィリップ・コトラーとジョアン・シェフ・バーンスタインは『Standing Room Only』の中で上記と同様のことを以下のように書き記している。
1. 現在すでに参加している人々に対し、より頻繁に同種のイベントに参加するよう促す方法。この戦略がサブスクリプション・シリーズのベースとなっており、既得の顧客に参加を奨励している「セコンド・ステージ」やその他の追加パフォーマンスを押し進める陰の推進力になっている。
2. 現在の参加者に対して、他のイベントやアート形式を提案する方法。この戦略の目的は、現在の参加者に向けて他のアート形式や他の団体を紹介すること。古典演劇の得意客を、モダンダンスや実験劇のパフォーマンスに勧誘するなどがその例である。この戦略の実行者は、それぞれ個別の団体、コラボレート下にある複数団体、メンバー団体の提供物すべてをプロモートする劇場組合などの統括団体が挙げられる。
3. 現在参加していない人々を、参加者にする方法。目的は、パフォーミング・アーツのイベントに参加する人口全体を増やすことだ。この目的を達成するためにするべきことは、例えば、公園での無料コンサート、ターゲット・グループに向けた特別イベント、などが挙げられる。
さらに補足して次のように述べている。
上記の戦略の中で、最初の戦略が最も達成しやすい。2番目はもう少し難しく、顧客行動を変えることが求められるだけでなく、団体間の協力も必要になる。3番目の戦略は最も難しい。参加していない公衆の持つ基本的なアティテュードや、彼らのテイストなどを変える必要があるからだ。
が、果たしてこれだけで良いのだろうか。むろん、この販売指向のマーケティング活動が間違っているわけではないが、これだけではマーケティングとは言えない。
もっと外部へと目を向けなければならない。顧客に対しても、経営面にあっても、価値創造の「機会」を創り出すことが必要ではないか。ましてや芸術団体や公共文化施設は非営利組織である。大切なのは経済的な収益ではなく、どれだけの「変革された個人」(ドラッカーの主張する非営利法人の成果)の創出機会を提供して、新しい価値(変革された個人)を創造してきたか、ではないだろうか。その成果の蓄積が経営に「機会」をもたらし、ブランディングを進捗させることになるのである。
改正地方自治法によって指定管理者制度が導入され、新公益法人改革関連三法も2008年12月1日に施行され、劇場(事業)法も水面下で検討されているなど、劇場・ホールを囲む外部環境はここ数年で劇的に変化しているし、今後も変化していくだろう。この変化に対応できなければ、公共ホールといえども「退場」の危機に瀕するであろうし、現に「退場」を検討している自治体が複数に上っていると聞く。
P・F・ドラッカーの言うように、現代のような「乱気流の時代」にあっては、変化はドッグイヤーどころではない、ブリンクイヤー(瞬きのあいだのように)で止む間もなく人間や組織を襲ってくる。「変化はコントロールできない。できるのは、その先頭に、立つことだけである」(ドラッカー『チェンジ・リーダーの条件』)。外部環境の変化はメガトレンドであり、リスクに満ちている。一人の人間やひとつの組織が変化をコントロールすることは不可能である。したがって、生き残りのためにはみずから変化の先頭に立って、みずからを陳腐化させるほどの連続的な自己の組織改革と事業の仕組みの改革を続けなければならない。
「明日のことはわからない。わからないからこそ、自分で明日を作ることが必要となる。自分で自分を陳腐化しなければならない。そのほうが、結局はリスクが小さい」
『チェンジ・リーダーの条件』
「変化」とは「機会」である。「変化」を怖れているようでは、時代に取り残されて立ち尽くすしかなくなる。組織がもっとも怖れるべきは機会ロスである。外部環境の「変化」が「機会」であるように、みずからの「変化」もまた「機会」である。指定管理者制度という外部環境の「変化」に対してみずからを「変化」させ、その「変化」がさらなる「機会」を生む契機となる、という循環を起ことでしか、激しい「変化の時代」を生き残る道はないのである。つまり、みずからが「変化」の先頭に立つ、ドラッカーが言語規定したチェンジ・リーダーになることである。
指定管理者制度を「機会」とする経営を。
行財政改革の一環として「官から民へ」の掛け声で地方自治法の[公の施設]が改正されて、指定管理者に施設の管理・運営を代行させる指定管理者制度が公共文化施設にも適用されることになった。当初、この指定管理者制度をビジネスの「機会」とするのは、民間企業だとされていた。「公共は政府の独占物ではない」という論理は正しいが、だからと言って「民」が「公」より優れているというのは幻想である。「公か民か」ではなく、「官」も「民」も平場で「優勝劣敗」を争うべきであると、私は思っている。民間企業が指定管理者になって従前と同レベルの管理・運営をコスト減でやっている例は数多あるが、ブランド化を推し進めて、広義のシティ・プロモーションに成功した事例は皆無である。また、そのようなブランディングを推し進めようとする経営を構想している民間業者も皆無である。
管理経費でかかるものはかかるのであるから、コスト減の原資は、概ね人件費の削減によるものである。これは「高止まりの人件費」と「無駄の削除」ということで一見すると合理的に思えるのだが、文化施設においては「生かさず殺さず」の状態に陥ることを意味している。公共文化施設は行政財産であり、これを管理・運営する指定管理者にとっての経営資源は、そこで働く人間に関わる技術集積や人脈や経験知という無形資産しかない。この集積をみずから放棄するのが、現行の指定管理者における契約職員、非常勤職員、アルバイトなどの非正規雇用者の増大である。公共文化施設における指定管理者の雇用形態の選択は、みずからの資産を蓄積するのか、放棄するのか、の二者択一をすることと同義である。むろん、資産ともならない無能な職員に高止まりの給与を払うのが「ムダ」であるのは言うまでもないのだが。
指定管理者制度は、専ら経費節減のために導入されたものではない。「住民サービスの向上」も制度導入の重要な目的のひとつとなっている。現況のように経費削減が指定管理者制度の主目的のように誤解されている根拠は、総務省自治行政局長の「地方自治法の一部を改正する法律の公布について」(通知)の下記のようなくだりである。
今般の改正は、多様化する住民ニーズにより効果的、効率的に対応するため、公の施設の管理に民間の活力を活用しつつ、住民サービスの向上を図るとともに、経費の削減等を図ることを目的とするものであり、下記の点に留意の上、公の施設の適正な管理に努められたいこと。
この通知は、「官は非効率、民は効率的」という前提で書かれていることは明白であり、そのバイアスが「民間の活力を活用しつつ、住民サービスの向上を図る」というくだりに良く表れている。私はこの「前提」が必ずしも正しいとは思わないが、元来、文化施設やスポーツ施設は、民間が地域に供給できないから、あるいはしないから、公共(自治体)が設置したのであり、その大前提をすっぽりと欠落させている。民間企業はそれらの施設を設置するために充分なマーケットが当該地域にないから「進出」しなかったのであり、それらの施設がある程度の非効率性をもっているのは設置前提として厳然とあるのだ。効率的に経営できて、利益を見込めるのなら、ショッピングセンター・チェーンのように全国くまなく進出しているはずだし、競合さえ起こっているに違いない。
指定管理者制度の誤解を価値創造経営で超える。
むろん、非効率と思える公共ホールは山ほど見てきている。非効率の要因も、縁故採用の無能な職員、一日中何もしないで新聞ばかり読んでいる行政から派遣されている管理職員などなど、そのほとんどが人に係わる経済的な非効率である。それを承知の上で、角を矯めて牛を殺すような「作文」で全国一律に「民間の活力を活用しつつ、住民サービスの向上を図るとともに、経費の削減等を図る」と「行政指導」をするのはいかがなものか、と思うのである。第一、「民間の活力を活用」すれば、「住民サービスの向上」と「経費の削減」が実現できるかのような幻想や錯覚が、この「通知」を鉛筆ナメナメ書いた役人にはあると、私は信じて疑わない。
果たして本当にそうだろうか。この「通知」から透けて見えてくるのは、小泉改革の「官から民へ」の掛け声よって様々な負担を民間に丸投げしてしまおうとする「行財政改革」という名の行政の負担軽減化の流れである。民間企業であるなら、サービスの向上と経費の削減ができる、というのは「妄言を吐く」のたぐいである。市場原理主義にしたがえば、もともと地域に文化施設は出来ないのである。しかし、地域には地域社会への社会的役割をもち、社会的必要に応え、それを実現する使命をもった社会的機関=公共文化施設は、憲法十三条の「幸福追求権」という基本的人権を実現する上で必要なのである。
確かに無定見な文化施設設置のラッシュはあったが、それらはもうすでに貸館を専らとするようになっており、これらの公共ホールには指定管理者制度はまさしく相応しい仕組みと私は思う。管理を専らしているからだ。
また、指定管理者制度の研究者でさえ「原則公募」と公言しているが、「通知」には「複数の申請者に事業計画を提出させること」が「望ましい」と書いてあるに過ぎない。さらに、2000年の「地方分権一括法」で、「通達」による行政指導は効力を持たないことが確認されている。単に自治体側が「通知」を、従来どおりに行政指導の効力を持った「通達」として誤認しているだけである。
指定管理者の現況では、「住民サービスの向上」と「経費の削減」は両立できない二項対立の目的となってしまっている。「住民サービスの向上」は完全に置き去りにされている。「経費の削減」だけが一人歩きしている。それでも足らずに、私の情報網に入ってきたかぎりでも、指定管理料を大幅に削減してどこも応募できない環境をつくり、「廃館」までも視野に入れている動きがすでに全国で三館進行している。私の知るかぎりであるから、そのような動きは水面下ではもっと多くあると見てよいだろう。「経費削減」だけを目的とするなら、そもそも公共文化施設を建設したことが間違っていたのだ。失政である。あるいは、「ホール建設ラッシュ」の時代に根拠もなく設置されて、現在では貸館専用になっている文化施設だけに適用すればよい、と私は思う。
指定管理者制度の現状はそれほど酷いものであるが、制度自体は悪いものではないと、私は思っている。事業運営に「やりっぱなし」がなくなり、「計画立案」⇒「実施」⇒「評価」の一定の流れを定着させる効果はあると思われる。そのことによって、「経営」という概念が公共文化施設に持ち込まれる効果もあるだろう。また、「評価」は第三者によるものが高い客観性をもっており、そこから高く評価されるように施設経営をすることが強く求められることになる。
そのことによって、指定管理者制度の施行を、第三者機関との連携・提携の「機会」創出と捉える積極的な経営思考をとることが必要となってくる。限られた経営資源を最大限に活用して新しい価値を創出する経営が求められることになってくる。ここでは取り上げないが、「劇場(事業)法」はこの先にあるといえよう。そして、劇場経営に携わる者は、そのような経営思考を求められる指定管理者制度を「機会」として捉え、厳しい経営環境下で新しい価値を創造することが求められるようになってくる。
また、2008年12月1日に施行された「公益法人制度改革関連三法案」、いわゆる公益法人改革もまた、公共文化施設を管理運営する当事者にとって「機会」と捉えるべきであろう。
現行の公益法人(財団)は、公益財団法人か一般財団法人かを、五ヵ年の移行期間に意思決定しなければならない。一般財団法人は準則主義によって登記によって設立できるが、公益財団法人は、そのうえで内閣総理大臣又は都道府県知事が、民間有識者により組織された合議制の機関の意見に基づき、一般財団法人の公益認定をするとともに、認定を受けた法人の監督を行うことになる。
公益財団法人と認定されれば、寄付金の税制優遇やみなし寄付金制度などの優遇措置が図られるが、そのことよりも職員一人ひとりが自らの事業や仕事の公益性を考える「機会」として、私はこの公益法人改革を考えたい。組織員の意識改革の絶好の「機会」であると思うのである。
むろん、公益財団法人と認定されることにより、指定管理者選定のアドバンテージとなることは、とりわけ基礎自治体の設置した公共文化施設にあっては制度的な合理性をもっている。しかし、職員一人ひとりが自らの施設での仕事が明確なミッションに貫かれ、社会的な要請に基づいているものであることを痛烈に意識されていなければ制度は空洞化してしまうだろう。教育、福祉、医療との連携による事業展開を自らのミッションと考えて、「社会機関としての公共文化施設」である存在証明をするのは、職員一人ひとりの意識であり、そこを起点とする仕事(task)の質であることは言を待たない。